二十へ変化


前作のアバンチュール?がニコニコでは200、YouTubeでは100再生を超えていました。どんどんと再生される回数が増えていくのが我が子を見守るような気持ちです。お聴き下さった方々、ありがとうございます。

早いもんでもう少しで二十歳になるそうです。どう足掻いても抗えない時間によって一方的に歳を重ねられる世界。無力な人間なりに死ぬまで足掻いてみます。小さな頃は二十歳というともっと大人な世界を目に見ているのだろうと思っていました。がらっと自分に映り込んでくる世界が変わったのは中学生に上がった時以来何も感じていません。テストという壁に追われ、自分の人生の選択を強いられ、まだあどけない14歳くらいだというのにね。一気に厳しい世界へとシフトしてしまうんだなあと半ば投げやりに生きていたような気がします。そこからなんやかんや色々とありまして、二十歳ですと。自分の中での精神的なところを弄っていくとやっぱり中学生の頃から何ら変わっていないんじゃないかなと思います。その頃の自分を核としてこれまで生きながら培ってきた教養や感覚を羽織って、幼い自分自身を隠している。無論隠せていないとするのなら何一つ成長とかけ離れた歩き方をしてきたような、そんな感覚があります。僕は子供のままでいいのでしょうか。自分一人じゃ生活はままならないし、将来的な明確な計画も何もない。そんな人間が二十歳に差し掛かっていると考えると不思議な恐怖心が湧いてきます。

今まで特に考えたこともなかったけれど、年齢を重ねていくと自分自身に対しての後悔がどんどんと大きくなっていることに気がつきました。これは二十歳だから、とかではないのですが、過去を振り返って今の思考回路に当て嵌めてまるで自分が他人であるかのように鎌を振りかざす。全てハナから否定の意思を持ち続けながらね。こんなではきっと昔の自分に怒られてしまうだろうなと頭の中では思いつつも、どうも自分を正当化することがままならない。中学生の頃と変わった部分はこのくらいなのかなと思います。音楽を作るのも中学生の頃から始めたので、本当に本質は変わらないものだろうなと。それとも僕自身が変化を毛嫌いして生きているせいもあるのだろうか。どこか名残惜しさや侘しさが残って自分の心臓に毛を生やしてくような変化が嫌いだ。尊敬しているアーティストは変化することは美しいと話していた。頭の中では同意の眼差しを向ける。ただいざ自分の環境が変わって行ったり、これまで当たり前だったものが突如として消えてしまうような場面に居合わせた時、変化する美しさよりもこれまでの普遍的なものをとってしまう。自分にとって一番甘き楽な道を選択しているんだと。そんな考え方は必要ないと自分の中の自分は叫び続けているんだけど、鼓膜の内側から外すことの出来ない耳栓をされているようにそれを正当化出来ないのです。変わらなければならないのに。弱い自分に腹が立ってきた。

二十歳といういい節目です。変化を美しいと思えるような人間となります。これは抱負ではなく未来予知です。大人な人間になっても何一つ世の中の見え方は変わらない、むしろ人間の汚らわしい部分ばかり目に入る。そんな世界で生きていた先人たちにあっぱれと言いたいです。泥臭く薄汚く生きているのが最も人間らしいのならば、それらを横目に音楽を続けていくような不適合者でありたいと思ってしまいます。こんな厨二臭いセリフあるかね。自分を蔑んで、生み出した音楽と大切な人に愛を注いで、自分なりの人間臭さで行きたいな。これからの世界がどう転ぶかは何もわからないけれどね。